阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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◉のぶレポート

北海道南西沖地震被災地をみつめて
吉田のぶの奥尻レポート'98

北海道奥尻町・奥尻島 ◉ 1998年7月7日
◎ 北海道南西沖地震

Text by 吉田のぶ

初出『月刊まち・コミ』

2011.1  up
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奥尻島北端の稲穂地区は、高い防潮堤で守られている。(北海道奥尻町・奥尻島 2005年8月)
9mの津波が押し寄せた奥尻島北端の稲穂地区は、海岸線が高い防潮堤で守られている。
参考写真 (北海道奥尻町・奥尻島 2005年8月) [クリックで拡大]

阪神・淡路大震災の1年半前の1993年7月12日、北海道南西沖地震が発生。奥尻島では死者・行方不明者が198人。阪神大震災とは事情が異なる。しかし、復興宣言をしたこの島から何かを学びたい——。1998年7月7日〜10日の4日間の日程で神戸新聞、まち・コミュニケーション、震災しみん情報室の合同取材が行われた。"まち・コミ"の1人として同行した「吉田のぶ」が、限られたこの誌面で奥尻体験を皆様に送ります!

地震から5年。復興の現状は

1993年7月12日午後10時17分、北海道南西沖地震が発生。直後には震源地周辺の町を津波が襲った。あれから5年が経ち、奥尻島や対岸の大成町では大きな防潮提が作られている。奥尻島では、被害の大きかったとされる南端部の青苗地区や北端の稲穂地区を中心に、場所に応じて高さ5〜12m、総延長13kmの防潮提が新しく作られた。堤の高さが当時の津波の大きさを物語る。もう一つの高潮対策として、あちらこちらで土盛りが行われ、道路や集落全体が以前より高くなったところもある。高く盛り上がる道路や防潮堤に視界を遮られ、「つまらない景色になった」と嘆く地元民の声も聞かれた。

最も被害の大きかったとされる青苗地区の海側の地域(低地)は、津波と火災で壊滅的被害を受けた。「海の近くにはもう住みたくない」との思いを持つ多くの人が高台に引っ越したが、160世帯は低地に戻ってきた。この地域は、地震後に町が全ての土地を買い上げて3mの土盛りを行い、区画整理された後に販売された。道路の幅も大きく広げられ、商店街も一から作った。下水道も整備された。今までのまちを失ったことを悲しむ人もいるが、「まちがきれいになった」と喜ぶ人、「義援金のお陰で再建できた」と感謝する人が多いことから、新しいまちは住民に受け入れられているのだろうと見受けられる。

しかし、再建にあわせて家や商店を大きくした人も少なくなく、大抵そのために借金している。新築であるために固定資産税も高額になる。まもなく復興特例が終わり、再建者にとって返済や納税が現実となる。「形の上では復興したが、これからがもっと大変」という言葉をよく聞く。

完全復興宣言はしたけれど

今年(1998年)3月17日に奥尻町長は完全復興を宣言した。確かに建物の再建は終わったと言っていいだろう。「町民がいつまでも被災者意識を持たないためにも復興宣言は必要だった」と言う人もいる。宣言はそれで良かったのだろう。

しかし、経済面から復興を判断するには、まだ時間を必要とする。再建のために受けた融資がゼロに戻ることを復興とするならば、数十年先のことである。さらに、稲穂地区で工場を経営するAさんは「身内を無くした者にとっては"復興"なんて有り得ない」と言う。元に戻ること、もしくはそれと同等の状態になったことを復興と呼ぶとしたら、決して戻ることが無く代わりをあてがうことの出来ない命と別れを告げた人には、復興を実感することは有り得ないのかもしれない。

「復興」の感じ方は人それぞれ、被災の程度やその人の置かれる状況によってまちまちである。「何を復興と呼ぶのか」と言う議論は、奥尻でもまだ結論は出せないでいるようだ。

神戸では物理的な復興が行われている最中ではあるが、経済的、精神的復興も同時に考えて行く必要があるのではないだろうか。

[了]

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Text 吉田のぶ

震災後の4月より神戸市長田区などで震災ボランティア活動を行う。その後も神戸を拠点に、ガテン系ボラとして様々な個人や組織と共に災害被災地で支援活動に携わっている。30代、阪神間在住。

◎ ブログ
のぶろぐ 縁の下のもぐら日記

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