阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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◉震災発レポート

被災者が描いた震災❷
——編集とプロデュースによって
初めて浮き彫りになったこと

神戸市中央区・兵庫県立美術館ギャラリー棟 ◉ 2010年1月23日
阪神・淡路大震災15年「震災の絵」展

text by kin

2011.1  up
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中学生が見た震災

一方、別のカテゴリーの作品群も展示されていた。一つは「中学生が見た震災の風景」である。これは震災当時、灘区の住吉中学校2年生だった生徒達の作品で、担任だった教諭が2ヵ月後の3月に描かせたものだった。ちょうど絵日記のように、一クラスの全員が文章付きで当時の様子を描いている。面白いのは、一クラスまるごとである点だろう。当然中には絵心のある生徒もいれば、得意ではない生徒もいるのだ。

この絵日記を描くためのスケッチに行ったわけでもないだろうから、ほとんどが頭の中に残った最も印象的な心象風景を描いている。それは道路のヒビであったり倒壊家屋であったり、マンションの窓から見えた風景であったり、部屋の中がぐしゃぐしゃになった光景であったりする。そうした窓からは、倒壊したビルや燃える長田の煙が伺える。またそれは写実的であったりマンガ的であったり、また簡単な線のみであったりもする。

しかしそこに共通しているのは、どれもが真剣に思いを残している点である。自分が中学のころを考えるとよくみんな素直に取り組んだなとも思ったが、改めて当時の状況を鑑みると学校は避難所になって、被災住民と共存している状況なのである。その「非日常の日常」の隙間で勉強したり学校生活を送っていたのだ。こうして一クラス分がセットになっているからこそ見えるものがある。

絵画教室「アトリエ太陽の子」—その"明と暗"のバランス

東灘の絵画教室「アトリエ太陽の子」の子どもたちによる絵も、数多く展示されている。この教室は、震災で児童を2名亡くしているという。そのことを忘れないようにと、教室の主宰者は、現在まで子どもたちに体験を語り震災学習を行ってきた。震災当時の映像を見せ、防災の絵を描かせている。モニターには、NHKの番組で取材された時の模様が流れていたが、それを見ていると結構ストレートな授業でびっくりしてしまう。小学校低学年くらいの児童に向け地震はこわいという話をしているのだから、みんなえんえんと泣いている。トラウマにならないかと思うくらいだが、その話の後に絵を描かせて思いをぶつけさせているようだ。

そんな子どもたちの描く絵は、映像や体験談から描かれるもので、つまり想像の世界だ。どれもが劇画風というかマンガ風なのが共通した特徴か。でも卒業生の中には芸大に進むような子もいて、そうした卒業生の手による作品も並んでいた。自分のことを振り返ってみると、同じくらいのときに広島の被爆マンガ『はだしのゲン』を読んで大きなショックを受けたことを思い出す。そうした後に原爆資料館にも行った。そういう悲惨なことがあったのは確かな事実なのだから、早い段階でこのような意識付けをするという選択もあるのかもしれない。

教室の子たちは震災の絵を描くと共に、ひまわりの絵を描くプロジェクトも行っており、館内の廊下いっぱいに飾られていた。震災犠牲者の数だけ、書き初め用紙くらいの紙一杯にひまわりを描いている。同じひまわりでもずいぶんと個性があって違う色彩を見せていることに気がつく。

この明と暗のように対照的な「震災の絵」と「ひまわりの絵」の2つのプロジェクトをセットで俯瞰して眺めてみる。すると「震災の絵」で一方に傾いた鬱滅としたブレを反動を、「ひまわりの絵」で寄り戻すというセラピーのような作業にも感じる。情操教育としては「震災の絵」はストレート過ぎると感じたが、それがあるから「ひまわりの絵」を描けるのかもしれない。これを描くことでバランスを取っているだろうか。幼稚な子どものひまわりではあるが、こうした流れを受けてまとめて見てみると、そのひまわりには、子どもたちなりの解釈を経た精一杯の想いを感じ取ることができる。

15年目で初めて浮き彫りになったこと

テーマ別に編集して全体をプロデュースする。こうした手法は美術館としてはごく当たり前の仕事だ。それは本来、観る者の頭の中を整理させるための手助け的なものだろう。だが今回の場合は通常とは逆のように覚えた。こうして描かれた結果を編集し、「テーマ」別に分けて見せることによって、「描いた被災者」の総体の心理の中にこうした「テーマ」が無意識の内に内在していた……ということを浮き彫りにさせていたのだ。つまりここに展示されたテーマは、初めからこのテーマを想定して募集されたものではなく、集まった作品を精査した結果から導き出されたテーマなのだ。これは初めてこうした展覧会を開いたからこそ、見えてきたものだと思う。被災者自身が何を残したくて、また何を残せないでいるのか。あえて言うと、美術界はこれまでこうしたことを見極めることができていなかったのではないか。

ここには児童から老人まで、プロの画家からアマチュア、素人までの様々な立場の市民による作品が集まっていた。そのほとんどが被災地の人、そして被災者によるものだが、その立ち位置は一様ではない。肉親を亡くされた方もいれば自宅が全壊になった方もいる一方、近所では全く被害の無かった方もいる。そうした様々なバックボーンを抱えた人たちの心象が混在していたということも、一つのポイントなのかもしれない。

これまでもこうした「震災と美術」の展覧会はいくつも催されてきたが、今回のものはそうしたものと趣きも異なったもので、また作家個人の展覧会とも異なっていた。また作品の中にはこれまでにも観たことがある作品やよく知られていた作品もあった。だがそれらの作品も含めてここに「集めて」「見せる」作業を施したことによって、初めて別の側面や新たなテーマが浮遊したことは、とても興味深い。このような展覧会こそ被災地内だけで行うべきものではなく、震災を伝えるツールとしても全国を巡回すべき展覧会であろう。

[了]

#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

◉データ
阪神・淡路大震災15年「震災の絵」展
開催日:2010年1月17日(日)〜1月30日(土)
場所:兵庫県立美術館ギャラリー棟(神戸市中央区脇浜海岸通)
主催:NHK神戸放送局、神戸新聞社、兵庫県、
       人と防災未来センター、兵庫県立美術館
後援:ひょうご安全の日推進県民会議、神戸市

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Text & Photos kin

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