阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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青池憲司コラム

震災10年目のKOBE 野田北部と御蔵

野田北部にて ◉ 2004年1月17日

Text& Photo by 青池憲司

2004.1.19  up
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1.17KOBEに灯りを in ながた(神戸市長田区・新長田駅前広場) 2010年1月17日
ローソクが点され、午前5時46分を合図に黙祷する (神戸市長田区・大国公園) 2004年1月17日

2004年1月17日未明、神戸市長田区野田北部の大国公園。阪神大震災の死者(全被災地で6434人、野田北部地区で41人)を悼むローソクが点され、午前5時46分を合図に黙祷する住民さんたちの環のなかに、わたしはいました。記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』(全14部)の撮影を終えた次の年2000年からは毎年、キャメラを持たずに、この日を被災地KOBEで迎えています。震災から何年すぎても、1月17日を被災地以外の場所ですごすことは考えられません。この日を越して、やっと新しい年の気分になるといった心もちがずっとつづいて、ことしもやはり野田北部にいます。以下、日記風に綴る今回のKOBE滞在記です。

16日の夕刻、野田北部まちづくり協議会の事務所へ入り、浅山三郎会長に挨拶。みなさんの近況をうかがう。事務所の2階にある宿泊施設の一室に荷物を置き、“立ち飲み”森下酒店へ出かけ、協議会メンバーの河合節二さん(せっちゃん)と会う。森下酒店は、お店の一角を立ち飲みコーナーにした酒屋さんで、こうしたお店は、関東ではすくなくなったが、関西ではまちのあちこちによく見かける。この地域に働く人たちが、帰宅前に一杯やっていく憩いの場である。先年、若くして亡くなったせっちゃんのお兄さんの俊造さん(俊ちゃん)がこよなく愛していた店で、撮影中は、わたしもスタッフもここで地元の人たちとよく飲んだ。いま、せっちゃんとふたりで飲んでいても、きょうは俊ちゃん遅いねえ、と思ったりしてしまう。葬儀のときに、俊ちゃんの死を、兄貴というより震災復興の同志の死のように思う、と語ったせっちゃんのことばが甦ってくる。いけない、立ち飲み屋での長居は禁物。缶ビールを1ケース買って協議会事務所へもどる。

事務所で再度、浅山会長、せっちゃんと話す。協議会のことしの活動予定などを聞く。ことしは、来年の震災10年へむけて地域復興の諸様相をみつめなおす年にしたいという。震災後のまちづくりで、町並みはほぼ出来あがったとはいえ、やればやるほど次々とやりたいことが生まれてくるのが、まちづくり。うごきが活発になれば並行的に課題も山積してくる。そこのところを、10周年を前にして問いなおそうということである。ことしのKOBEでは、まちづくり協議会やNPO/NGO、支援グループでそうした活動がさかんになるだろう。10周年の実質は、ことしどんな活動をするかできまってくる。

そんな話をしながら、せっちゃんとわたしはビールと酒を飲み、浅山会長は、もう一生分飲んでしもうた、と震災前から断酒している。明日は5時起きだから深酒はすまいと思いつつ、17日前夜のこの夜は深酒をしないとやりすごすことができない。例年のことである。

17日朝は、近畿地方にもこの冬一番の寒さが襲ってきた。ときどき霙っぽい雨がぱらつく。5時30分に宿舎から歩いて1分の大国公園へ。地域の人たちが集り、「117」をかたどったローソクに灯を点し合掌している。わたしも、撮影時に親しんだあの人この人に立ちまじって手を合わせた。例年のように、韓国人僧侶が奏でる鎮魂の笛の音が聞こえている。5時46分、荒川博之自治会長の発声で黙祷。空気は冷え冷えとしているが、気もちは高ぶり、身体は熱い。この朝に特有の現象だ。黙祷が終わるとそのほかのきまった儀式はなく、人びとは語り合って家路につく。簡素で心のこもった野田北部の朝である。

例年のことだが、そのあと、カトリック鷹取教会のミサに出席して、神田裕神父の説教をきく。わたしはクリスチャンではないから信徒としてではなく、かつての鷹取救援基地、現たかとりコミュニティセンター(TCC)代表の神田さんに会うためである。信徒ではないが、震災後のミサからはじまったという、参会者が、おたがいの「平和と平安」を祈って握手を交わすコミュニケーションが、わたしはすきだ。これは、わたしが1990年に発表した映画『ベンポスタ・子ども共和国』のなかで、ベンポスタ共同体の重要なシーンとして紹介した事柄でもある。神田さんや、震災復興活動の過程で親しくなった信者さんとの再会と平和の握手。わたしの新年の欠かせぬ儀礼である。

午前9時。大国公園を出発して新長田、大正筋、六間道、真野、御蔵の“ディープ長田”を経て、震災慰霊の中央行事が行なわれる東遊園地まで、被災地をめぐる「オリジナルiウォーク」に参加。オリジナルというのは理由がある。そもそもの「iウォーク」は、NPO/NGO団体とボランティア・グループがよびかけてはじまった。巡礼道も上記の通りであった。それが2年前から兵庫県主催のイベントになり、ルートもかわってしまった。そうなったにはそれなりの理由があるのだろうが、わたしはそれが気にいらなくて、その年は、ひとりでオリジナル道を歩いた。「iウォーク」の「i」は「わたし」であり「independent」の「i」であるわけだ。

おなじ思いの人はいるもので、単独行あるいは少人数グループと出会った。それが、次の年には組織的によびかけはしないが、メーリング・リストなどで集団のかたちとなり、ことしはさらに同行者がふえた。一応の先達はいるのだが、多くは見知った顔ぶれであり、巡礼道も承知した行程であるので、それぞれがそれぞれの興味で立ち止まり、あるいは寄り道をしたりという、自分自身の関心で被災地を歩く、気ままなinformalな道中とはなった。

午前11時前に一行は長田区御蔵に着く。御蔵南公園の開園式と、「御蔵通5・6・7丁目自治会集会所」の開所式に参加。このコラムではおなじみの田中保三さん、「そばめし隊」で大久保にきてくれたみなさん、「まち・コミュニケーション」スタッフの面々と再会。この集会所は、日本海側の町に建っていた古民家を移築したもので、当日くばられたパンフレットによると、「但馬・香住町の海辺の町『安木』にあった、明治19年に建築された民家を移築・増築したものです。柱、梁はもちろん、瓦、床板、壁土や天井の竹など、再利用できるものはできる限り生かしました。この解体から運搬、洗い、再建の工程には、多くの技術者・匠の献身的な協力と、建築を志す学生や住民のみなさんの協力を得ました。専門家とボランティアと住民が一体となって作り上げたものです」とある。

集会所の完成は、震災後の仮設集会所の時期、2001年12月に古民家を活用した集会所が発案されてから2年余の時間を要した。この間、建設ボランティアによる古民家の解体、住民による壁土づくり、神戸市との借地契約はじめ行政とのさまざまな折衝、建設資金集め、などなど、まさに住民と専門家とランティアの知力体力を全開した2年余であった。移築された古民家のすばらしさもさることながら、この事業を成し遂げたプロセスこそ住民のみなさんが誇るべき快挙といえる。

「iウォーク」をいっしょに歩いた野田北部まちづくり協議会のせっちゃんやスタッフの安元美帆子さんと、「いいね、いいね、御蔵もやるね」と話しながら昼めしのうどんを食べ、寒くて固まってしまった身体をほぐし、事務所へもどり一休み。夕方5時にふたたび御蔵へ。東京・大久保から関根美子さん(あらばき協働印刷のおばちゃん)が、娘さん夫婦ときている。3人は夕刻5時46分の慰霊祭準備の手伝いをしている。これもインターコミュニティのひとつの発露だ。

こうして、わたしの1月17日の長い一日は終わり、KOBEの10年目がはじまりました。野田北部の宿舎にかえってTVをつけると、イラク派兵の陸上自衛隊の先遣隊がクウェートからイラク入りまぢかのニュースを伝えていました。わたしが誇らしく思う、KOBEのコミュニティづくりの対極にあるのが、いまの国家・小泉政権です。

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」寺山修司

[了]

◉初出誌
「阪神大震災ドキュメンタリーヴィデオコレクション─野田北部を記録する会WEBサイト」サイト内
「連載コラム『眼の記憶』第7回」2004年01月19日掲載を再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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青池憲司

ドキュメンタリー映画監督。震災後、親交のあった長田区の野田北部・鷹取地区に入る。"野田北部を記録する会"を組織し5年間に渡りまちと住民の再生の日々を映像で記録。
「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」(1995年〜99年,山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品)を発表、国内外で上映。2002年「日本建築学会文化賞」受賞。

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