阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

阪神・淡路大震災応急仮設住宅

市街地の野球場内に建てられた仮設団地
(長田区・神戸市民球場跡地 仮設西代住宅 1995年10月)
西代仮設の跡地は今、公園になっている
(長田区 西代蓮池公園 2010年1月) [クリックで拡大]
  • 建設発注日
  • 建設期間
  • 入居期間
  • 全設置数
  • 兵庫県民用
  • 大阪府民用
  • 最大利用時
  • 団地数
  • 最大団地
  • 最小団地
  • 1995年01月19日〜1995年06月27日
  • 1995年01月20日〜1995年08月10日
  • 1995年02月02日〜2000年01月14日
  • 49,681戸
  • 48,300戸(大阪府内建設地含む)
  • 1,381戸
  • 47,911世帯(1995年11月15日)
  • 653団地
  • 仮設西神第7住宅(1060戸・西区)[2]
  • 仮設御蔵通公園住宅(3戸・長田区)[2]

    出典元

[ALL]第三節 応急仮設住宅の建設等について『阪神・淡路大震災復興誌[第1巻]』震災復興誌編集委員会,兵庫県/21世紀ひようご創造協会,1997年

[ALL]災害への取り組み:応急仮設住宅の建設 - プレハブ倶楽部(社団法人 プレハブ建築協会)

[ALL]阪神・淡路大震災にかかる応急仮設住宅の記録/兵庫県県土整備部 - 兵庫県

[ALL]『阪神・淡路大震災の被災状況と復旧・復興の状況について』- 兵庫県

[ALL]阪神・淡路大震災−兵庫県の1年の記録 - 兵庫県知事公室消防防災課:震災文庫(神戸大学附属図書館)。PDF全文

[2]阪神・淡路大震災—神戸の生活再建・5年の記録 - 神戸市

解説

    応急仮設住宅  

仮設玉手住宅
(姫路市玉手 1997年1月) 神戸市住民向け市外地域建設仮設住宅

応急仮設住宅の供給計画、生活支援活動、解体撤去・復旧など「区別一覧」「入居状況の推移」「建設場所分布」などの詳細データは出典元[ALL]や参考文献に記載がある。ただしデジタルになっていないものが多いので、書籍を参照のこと。

応急仮設住宅とは、災害のために住家を失った被災者のうち住宅を確保するまでの間、一時的に居住の安定を図るための簡単な住宅のこと。大きく「災害救助法に基づき自治体が建てるもの」と「個人一般が建てるもの(自力仮設住宅)参照」に分けられる。

自治体が建設する仮設住宅は、災害救助法(第二十三条 一 収容施設〈応急仮設住宅を含む。〉の供与)[1]に基づくもの。本来は各市町が建設するものだが、今回の震災では国の責任のもと、発注・建設を府県が一括し、用地の選定・配置計画・確保、及び入居・管理を各市町が行った。このため仮設住宅の建設用地や配置、管理形態などは、行政の事情によって微妙に異なるものとなった。数千、数万単位で仮設住宅を建設した例は、国内では過去に例のないものだった(「近年の主な災害時においての建設事例」の項参照)。

  • 参考文献

  • 『平成7年度兵庫県南部地震 神戸市災害対策本部民生部の記録』神戸市民生局,1996年
  • 仮設住宅の生活と支援 - 内閣府:『阪神・淡路大震災教訓情報資料集』[4]
  • 応急仮設住宅 - 神戸市:震災資料室
  • 被災者の住宅問題「避難所・仮設住宅の法制度と運用」/阿部康隆『大震災100日の軌跡 (阪神大震災研究)』神戸大学〈震災研究会〉編,神戸新聞総合出版センター,1995年
  • 仮設住宅における生活の苦労と努力「仮設住宅の建設と生活上の問題点」/室崎益輝,「仮設住宅街における自治会活動の実状」/柴田和子『苦闘の被災生活 (阪神大震災研究2)』神戸大学〈震災研究会〉編,神戸新聞総合出版センター,1997年[5]

    建設用地

行政は「早く、大量に」を命題として用地を検討していたが、その選定は困難を極めた。公有地から選ぶことを原則としていたが、用地提供の申し出のあった民有地に建設されたものもあった。神戸市ではこうした民間からの申し出がおよそ150件ほどもあったというが、必要な条件に当てはまる用地は中々なく、全体の1割ほどであった。[2]

神戸市は大規模な被災焼失地区に震災復興区画整理の計画を掛けたために、既成市街地内に失われた戸数分の建設用地を確保できなかった。学校の校庭などは教育の妨げになるとの反対で使えず、市街地内のほとんどは公有地である公園内に建設された(大学、専門学校の敷地内の例はあった)。そのために逆に子供たちの遊ぶ場所が不足し、「こうべっこ遊び場マップ」というものを市が作成したこともあった[3]

一方、西宮市や芦屋市などでは、災害事例では過去に例がない学校の校庭に建設した団地もあった。従前の近隣市街地に建てることができた半面、児童の教育に支障をきたしたという指摘も一部ではあった。 当時芦屋市長だった北村春江氏は、

芦屋市ではこの急がなければならない仮設住宅の用地確保には苦労した。市街地10平方キロ足らず公園・未利用地は勿論民有地などの提供を受けたが、なお足らず最後、小中高のグランドに建設せざるを得なくなった。渋る市教育委員会、学校、PTAに懇請し、1年間の約束で建設したが結局グランドから仮設住宅を撤去できたのは平成10年8月末であった。3年間グランドを使えなかったことは生徒達の体育に支障をきたす苦い経験となった。[7]

と回想している。

  • 神戸市の用地選定の条件[2]

  • 無償であること
  • 市内にあること
  • 大規模な造成を必要としないこと
  • 平地の面積が1,000平方メートル以上であること
  • 2年以上借りられること
  • すぐに着工できること
  • 道やライフライン(上下水道)設備が整っていること
  • 神戸市の仮設住宅「建設用地所有者」別一覧[2]

  • [所有者:戸数]
  • 民間・個人:2,834戸
  • 住都公団:3,047戸
  • 国鉄清算事業団:330戸
  • 国:181戸
  • 兵庫県:147戸
  • 神戸市:22,639戸

    建設用地の環境 - 市街地/郊外

郊外のニュータウン造成地に建てられた仮設住宅
仮設北神戸第4住宅 (神戸市北区鹿の子台 1997年1月) [クリックで拡大]

仮設住宅はその立地場所から大きく「市街地型」と「郊外型」の2つのタイプに分けることができる。このようにタイプ別の通称が付けられたのは、その立地条件によって生活環境が大きく左右されることが次第に明らかになるにつれ、孤独死などのさまざまな問題が表出してきたためだった。

公園用地などの既成市街地内に建設できたのは神戸市でも全体の半数ほどで、ほとんどの被災者は従前の近隣地域に住むことができなかった。多くは郊外にある西神や学園都市、須磨や鹿の子台といったニュータウン造成地、ポートアイランドや六甲アイランドといった人工島の埋め立て地のほか、遠く西は加古川市、姫路市、東は県外の関西国際空港の目前にある、りんくうタウン(大阪府泉佐野市)にまで建設された。

このような「郊外型」の状況に関して、神戸市は『生活再建本部の記録』の中で、

神戸市の開発行政に対する議論があるが、須磨ニュータウン〜(略)〜六甲アイランドといった人工島の開発を進めていたから、これだけの被害を受けても全市が壊滅的な状況にならなかったし、同時にすぐに使える土地があり、仮設住宅の用地を確保することができたのも事実である。(p50)

という見方を示している。[2]

郊外にあるニュータウン造成地は西区や北区に位置し、海側の都市部にある市街地からは六甲山系を越えた地域にあった。ここは海側と比べ標高も高く、気候も寒かった。またニュータウンや埋め立て地はもともと市街地ではないため、住宅以外の施設がほとんど整っていなかった。市街地にあった喫茶店、スーパー、コンビニ、お好み焼き屋、銭湯、居酒屋、パチンコ店、病院、そのほかの公共施設等々。もともと近隣のニュータウンに住む若い世代の住民たちは、通勤や通学先が湾岸の都市部。日常の買い物は駅周辺のスーパーや車で移動しての郊外店であり、インナーシティの被災住民とは日常の生活スタイルが異なっていた。

こうした教訓を踏まえ、仮設住宅だけを建設するのではなく、住宅や仮設店舗なども含めた「仮設市街地」を作るべきだという提言や実験も行われている。[6]

一方、淡路島内ではほとんどの仮設住宅を従前の近隣に建設することができ、また同じ被災地区単位でまとまって移住することができた。そのために地域のコミュニティを維持することができ、以前同様に自治会にも籍を置くことができたという。

また島内では敷地に余裕のあったために、住宅を2戸ごとに間隔を空けて配置できたが、敷地の限られた神戸市では可能な限り多く建てるために連棟タイプ(長屋形式)の仮設にしたため、構造的に現場大工の負担が多くなり人員の確保や作業の手間が増えた。また薄い壁が連結されることによって騒音などの住環境の悪化が問題となった。[4]

  • 郊外型仮設の地元との距離感 

  • [距離・時間・列車運賃] (数値は1995年当時で推計)
  • 長田区〜大阪府泉佐野市「仮設りんくうタウン内住宅」
  • → 新宿駅〜木更津駅相当
  • [80キロ・2時間・1,500円]
  • 長田区〜姫路市「仮設姫路玉手住宅」
  • → 新宿駅〜鎌倉駅相当
  • [50キロ・1時間・1,000円]
  • 長田区〜北区「仮設北神戸住宅」(鹿の子台仮設)
  • → 新宿駅〜高尾駅相当
  • [30キロ・1時間・700円]

郊外型は、どれくらい市街地から離れていたのか。推計してみると、ちょっとした遠距離通勤くらいはあった。この物理的な距離により、なかなか地元に帰ることができない、地元に帰っても人がいない、地元から訪ねてくる客も少ないという幾つものリスクを背負うことになった。

そして、それよりも大きかったのが全体に漂うやるせない喪失感であった。住民の支援を続けるある地元ボランティアの方は、それを「心の距離感」と表現し、問題の難しさを語っていた。

仮設入居者が元長田区住人とした場合、この時の「距離感」を東西北の大阪・姫路・神戸市北区と最も遠隔に建てられた各仮設で考えてみた。

長田(神戸高速鉄道高速長田駅)から各仮設住宅の最寄り駅までで換算。距離・時間・列車運賃で考え、関東で新宿を起点として換算し、推計してみた。実際にはさらに、駅から本数の限られたバスに数十分乗らなければならない。

    最大団地・最小団地

仮設西神第17住宅
(神戸市西区狩場台三丁目 1997年1月)

ただし実際には西神(西区)や鹿の子台(北区)、ポートアイランド(中央区)、六甲アイランド(東灘区)などの郊外型の大規模仮設団地群では、大きな団地同士が同じ土地に隣接して建設されていた。そのため団地の切れ目も曖昧で、より広大な印象を受けるものだった。

例えば最大だった仮設西神第7住宅の場合も、フェンスなどの区切りもなくほぼ同じ敷地内に仮設西神第1住宅(661戸)が隣接していたため、事実上1,721戸もの壮大な住宅群を形成することになっていた。

この西神第7は最大かつ第2次募集の仮設だったために、最も支援が求められていた仮設となった。ボランティアも看護師資格を持った者などが24時間常駐し、ふれあいセンターが2棟では週6日ふれあい喫茶が開かれた。仮設の診療所も敷地内に設置。そうしたこともあり被災地全体の仮設住宅団地の象徴のような存在となり、もっともメディアに取り上げられた有名仮設でもあった。

あまりにも無個性で巨大に成りすぎた団地では、当初は案内板もなく号棟の番号表示も目立たなかったため、外からの来客者のみならず、住民自身も自宅を見つけられずにたどり着くのが困難だった。そのため迷子もたびたびあり、凍死者も出ていた。

一方、淡路島の津名町に建設されていた志築新島仮設では、当初より仮設の外壁面に大きく号棟の記号が記されていた。[志築新島団地 9坪型・写真]

     入居決定方法

最初の仮設住宅申込みの抽選結果は、避難所に掲示された。
(長田区・志里池小学校 1995年2月13日)
  • 神戸市の入居優先順位[2]

  • 第1順位
  • 高齢者だけの世帯(60歳以上)
  • 障害者のいる世帯(身体障害者手帳1・2級、療育手帳Aランク)
  • 母子家庭(子どもが18歳未満)
  • 第2順位
  • 高齢者のいる世帯(65歳以上)
  • 乳幼児のいる世帯(3歳以下)
  • 18歳未満の子どもが3人以上いる世帯
  • 第3順位
  • 病弱な人・被災により負傷した人・一時避難により身体の衰弱した人のいる世帯
  • 第4順位
  • その他の世帯(上記の3つの区分に当てはまらない世帯)
  • 神戸市の入居者決定方法の推移(第1次、第2次) [2]

  • 第1次募集(1月27日〜2月1日)
  • 募集戸数:2,702戸(一時使用住宅[応急仮設住宅・公営住宅空家])
  • 応募件数:59,449件
  • 対象件数:2,1897件(第1順位)
  • 鍵渡:2,340件
  • 優先順位により区ごとに抽選(第1順位のみ)
  • 第2次募集(2月28日〜3月7日)
  • 募集戸数:12,802戸(応急仮設住宅のみ)
  • 応募件数:63,367件
  • 鍵渡:8,458件
  • 優先順位により希望団地ごとに抽選(第1順位のみ)

当初神戸市などは、入居者の決定方法を抽選により決定することや、一回目の抽選の後に応募者全体の2割ほどを再度の抽選枠を弱者枠とすることなどを決めていたが、県を通して国からの強い要請があり、優先順位を付けて最初から弱者優先の抽選入居とする方式に変更された。寒い避難所で多数の高齢者が体調を崩していた状況からの"人道的"な通達だったという。

この変更について、神戸市は『生活再建本部の記録』の中で、

この要援護者優先は、当時の状況からすればやむ得ない措置とも考えられるが、結果としては、当初募集の仮設住宅団地は「要援護者の団地」となり、団地内のコミュニティづくりや見守り活動に大きな問題を残すことにもなった。 (p54)

と記している。[2]

このようにこの入居者の決定方法は、大きな教訓を残す判断となった。そのため2004年の新潟県中越大震災や能登半島地震では、元の地区ごとにまとまっての入居が配慮された。

神戸市では第1次の募集を1月27日から行った。応急仮設住宅だけでなく公営住宅の空き家分を合わせた一時使用住宅全体の募集となった(第2次募集からは仮設住宅のみとなる)。区ごとによる抽選で、2,702戸の募集に対し6万件弱もの応募があったが、優先順位1位の申込者が多かったため、その2万件ほどが対象となった。

2月4日に抽選、7日未明に当選発表となった。まだ郵便事情が良くないことや避難先にいる人が多いことなどから、発表は188ヶ所の避難所に掲示板で掲示される。

第2次募集も第1順位からの抽選となった。この募集からはこの優先順位1位に精神障害者が加えられる。また1次は入居団地を選べなかったのに対して、2次からは希望団地ごとの募集となった。この第2次募集は西区や北区の造成地やポートアイランドや六甲アイランドの人工島といった大量の郊外型団地が多かったためもあり当選後も辞退者が多く、定員割れの空室が多く出てしまった。

こうして「第1次、第2次募集」が「優先順位・第1位」のみからの抽選となった結果、「第1次、第2次募集団地」=「要援護者の団地」という図式が生まれた。第3次募集〜第10次募集は、優先順位第2位以降も含まれるようになったこともあり、入居世帯は平均50歳代で比較的若い世代も含まれた[5]。このことは支援する側からしても、この仮設団地の募集時期が第○次だったかということは、重要なキーワードの一つであった。

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